『--医師として生きる 独自リハビリ、教壇に--

 「医師であり続ける」。佐藤正純(さとう・まさずみ)さん(47)=東京都=の思いだ。臨床はあきらめたが指導はできる-。横浜市大病院の脳外科医で37歳だった1996年2月、初めて滑ったスノーボードで転倒した。医局の北海道旅行。頭を強く打ち意識不明の重体に陥った。

 1カ月たつころ、いつも身に着けていたポケットベルを看護師が鳴らし、呼びかけてみた。「先生、急患です」。「はい」。目を開き、意識を取り戻した。手術の執刀のほか、研修医や救急救命士の教育に当たったころには「鬼軍曹」と言われるほど、仕事がすべてだった。

 眼球に届いた映像を確認する大脳の一部が損傷し、目の前の人影もぼんやりとしか見えない。記憶と認知の障害も自覚するようになった。「将来、どうなるのだろうか」。5月3日が憲法記念日だと思い出せない。太陽が昇るのも「西」だった。

 社会復帰を目指し、病院でのリハビリに続いて独自の取り組みを続けることにした。記憶力や失った知識を取り戻そうと点字図書館のテープをいくつも聴き、文章を読み上げるソフトが付いたパソコンを使いキー操作を練習した。

 「障害が残り退院したかつての患者を思い起こすと、途中で投げ出すわけにいかなかった」。歩行訓練も恐怖感はあったが、趣味の鉄道に代わり楽しくなった。

 ようやく1人でJR山手線に乗った時、思わず涙が出た。経路は高校時代の通学と同じだった。しかし将来が見えてこない。「努力は報われないのか、家族にも社会にも迷惑を掛けなければならないのか」

 苦しむようになったころ、医局から話があり、2002年から横浜市の医療福祉の専門学校で非常勤講師として働き始めた。医師と患者の2つの立場。「若い人たちに臨床医学や医の倫理などを教えることはうれしいし、生きがいです」』

 スノーボードで急性硬膜下血腫になった脳外科医の話は脳低体温療法の話と関連して知っている脳外科医も多いだろう.私もこの脳外科医の話を聞いたときは人ごととは思えなかった.想像を絶する苦労の中から社会復帰する姿はきっと周りの人に感動を与えたことだろう.医局旅行中の事故だったからなのかもしれないが,医局が社会復帰の機会を与えてくれたというのも今時の医局にしては素晴らしい話である.頑張って医療従事者を目指す若者を指導し続けてほしい.

 ところで,医療従事者が脳卒中で倒れて後遺症で苦しむことも珍しくはない世の中であるが,病院でこれらの後遺症などで身体障害をもった人が働いている姿をほとんど見たことがないのだがなぜだろうか.確かに肉体労働が多く身体的ハンディキャップがあってはできない仕事が多いのは事実である.だが健常者にはわからない患者の苦しみというのもあるはずであり,そういう苦しみを身をもって理解している医療従事者が患者さんの傍らで元気に働いていれば十分存在価値があるのではないだろうか.

 病院で患者を看る人は健常でないといけないという考えがどこかにあるのであろうか.またしても社会保険庁の決めた規則なのだろうか.本当の理由は今の私にはわからないのだが,病院というところはそういう意味でもいまだに閉鎖的な職場なのかもしれない.

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